ぼくはユーリの手の感触を憶えていなかった。
憶えていたのは唇の感触…唇と燃えるような瞳と満月を見るときの
漠然とした美しいものを見る時の圧倒感。
それ以外は、美しいという感嘆ばかりが記憶に焦げ付いていて…
隅々と些細なところまで丁寧な造形をしていた。
そこまでは思い出せるのに、明確な姿形は思い出すことができないのだ。
それでいて本人を目の当たりにすれば、それは紛れもなくあの美しい人。
ユーリに相違ないことがわかるのだが…
ぼくのユーリとの親密な記憶は、頼りない言葉と感覚に偏っていた。
殊更、唇と唇の触れ合いの鮮明さに圧迫されていた。
胸を焼き千切られるくらい切なげに請いてくる瞳に捉えられたら
ぼくは躊躇することなく彼にぼくの唇を捧げた。
ユーリがぼくを求めているのだ。
唇の感触ばかり追い求めて、飽きずに日を跨いで唇を触れあわせていることなんてザラだった。
彼はいつも退屈だったが飽きるということを知らなかった。
心地いいか、よくないかだけが、彼の判断基準だったのではないだろうか?
当時のぼくは存在からして出来損ないで、時間の感覚が曖昧だったからこそ、お互い足りない部分が噛み合っていて、それはそれは相性抜群だった。
唇だけになったぼくらは、快感の波にゆらゆらと揺れていた。
ユーリの渇きが限界に達するまで、ぼくらは唇になっていた。
吸血鬼というものを彼しか知らなかったから、これが当たり前なのだと思ってきたけど。
彼と口付け合う事が出来なくなって、外を彷徨っているうちに何人かの吸血鬼と出会って、
懐かしさから深く関わっていくうちに、彼が特別に退屈で渇いているのだと気づいた。
ユーリの名を出すと、彼等は僕がその名を知っている事に先ず驚いて、次いで、ぼくらの関係を疑いぼくの話を法螺話としてしか信じなかった。
ぼくが知らないユーリを知りたくて彼らにユーリの話を強請ると、抽象的な結末の御伽噺が返ってきた。
どの御伽噺の世界のなかでも彼のお話しの結末は大体にして、愛する者を失い眠りにつく…というものだった。
吸血鬼たちは夢見るように話し終えたのち、急に、美味いんだか不味いんだか判断のつかないものを食べたような表情をして
「これはただの寓話だが、このユーリという吸血鬼こそが唯一、死の永遠の伴侶となった吸血鬼なのだと、我々の種族で語り継がれている」と締めくくる。
死から切り離されていた透明なぼくには、彼らの思いは理解しかねたけど、ユーリが吸血鬼から見ても特別な存在なのは理解した。
それに、ユーリ以外の吸血鬼たちは、ぼくの唇より首筋で脈打つ動脈に興味があったみたいで、油断すると酷い目にあった。ユーリほどでは無かったが彼等も渇いた種族だったのだ。
ぼくはユーリの手を覚えていない。
だから強いて自分の手をユーリを思い描いて作る必要がなかったのだ。
彼の赤い瞳と唇以外は“人間”として都合よく過ごしていけるように試行錯誤して造形したものだ。
長い手足は手に入れるのも逃げるのも容易にしてくれる。
高い身長は遠くがよく見えるし、着飾れば誰よりも目立てる。
細い身体は壁の隙間に障害なくぼくを招いてくれる。
長い指は音楽を奏でるのに重宝した。彼の美しい声が歌う音色に見合う旋律を探るのは、突然襲いかかってくる虚無から救ってくれた。
ユーリから遠ざかる姿を得る事で、忘れようと努力していた。
200年ぶりに見つめ合うことが叶った彼は、彼の知らないぼくの肉体に興味を示している。
ぼくも興味本位で、他の吸血鬼が求めて止まない脈打つ首筋を曝け出す。
珍しく驚いた表情をした彼は戯れに動脈を唇で撫でて強く皮膚を吸った後に
ぼくの唇に噛み付いた。
彼は寝過ごして見逃してしまったぼくの過去に嫉妬しているらしい。
身体中を確かめる冷たい彼の手が、こんなにも嫉妬に熱く執念深く、優しいことを
ぼくは初めて知ったのだった。
興奮して笑いが止まらなかった。2人で触り合いながら何日も笑いが止まらなかった。
戯れの最中
「君を忘れようとした日々が白夜のようだった」
と告白すると。
「それは夢だよ」
と彼は言い切った。
彼の唇はなんて刺激的なのだろう。
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